大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅 
勝海舟と洗足池

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅、勝海舟と洗足池です。

■勝海舟

勝海舟(かつかいしゅう)。
幼名は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦、維新後は安芳(やすよし)を名乗りました。
「海舟」という号は、佐久間象山の書「海舟書屋」からとったものとされます。


(勝海舟/Wikipediaより)

旗本の家に生まれ、蘭学と西洋兵学を学び、その開明的な考え方は幕府で一目を置かれるようになります。

黒船来航で世が騒然とする中、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所に入門を果たすと、1860年には咸臨丸艦長として、日米修好通商条約批准のため使節と共に太平洋を横断しました。

帰国後は神戸に軍艦操練所を創設し、広く人材を育成して海軍創設に尽くしました。
坂本龍馬との出会いもこの頃と思われます。一説には、勝を斬りに来た龍馬は、逆に勝の開明的な考えに感化されて弟子入りしたと言われます。

■無血開城

その後も激動の幕末維新期で、幕府の要職を歴任します。
戊辰戦争時には、薩長を中心とする新政府軍が江戸への総攻撃を準備する前夜、勝は陸軍総裁として、新政府軍の参謀西郷隆盛と折衝し、江戸城の無血開城を実現。江戸の町が戦火に見舞われることを直前で防ぎました。


(勝海舟・西郷隆盛会見の地の碑/田町駅近く)

維新後も勝は旧幕府の代表格として政府の要職に就きますが、すぐに辞任したり辞退したりしています。明治政府への仕官に気が進まなかったのかもしれません。

晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、「氷川翁」とも呼ばれます。
1899年、風呂上りに倒れ、脳溢血により意識を失い、そのまま息を引き取りました。
享年75歳。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったそうです。

■ゆかりの地

東京には勝のゆかりの地が多くあります。

まずは勝の生誕の地。両国駅から徒歩5分、両国公園に生誕の地の碑が建っています。
勝は7歳のときに、ときの将軍家斉の孫の学友に抜擢されて大奥に住み込みとなりますが、それまでをこの両国の地で過ごしました。
お上からお声がかかるあたり、若い頃から才が秀でていたのでしょうね。


(勝海舟生誕の地の碑)

勝が晩年を過ごしたのが赤坂氷川の地です。
実は勝は氷川の地に2度居を構えています。一度はまさに激動の幕末維新のとき。
そのときは勝は徳川側の要人でしたから、厳重な警備が敷かれていたのかも知れません。実際に坂本龍馬が勝を斬りに(?)訪れたのもここでした。


(勝海舟邸跡)

いま一度は、晩年。維新後、勝は駿府に移り住みますが、明治5年に再び上京。亡くなるまでを赤坂の地で過ごしました。
その寓居跡には、勝と龍馬の凛々しい像が置かれています。


(勝海舟・坂本龍馬師弟像)

■洗足池

勝の墓は、その遺言によって、池上の洗足池の畔にあります。
勝は幕末維新期に、江戸城明け渡しの交渉のために、薩摩藩が本陣をおいた池上本門寺を再三訪れました。
そのときに観た洗足池の風光を気に入り、後に別邸を建てました(戦災で消失)。

訪れた日は、残念ながら勝の墓所は工事中で立ち入り禁止でしたが、紅葉がとても綺麗でした。


(奥に見えるのが勝海舟の墓。工事中のため立ち入り禁止)

激動の人生を歩んだ勝ですが、最後に自身の愛した風光明媚なこの地で安らかに眠れるのは、天のご褒美かもしれませんね。

ありがとう、勝海舟!ありがとう、洗足池!

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