大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅
松平容保と京都・金戒光明寺

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅、松平容保(まつだいらかたもり)と京都・金戒光明寺です。
会津藩士墓地のほか、通称「アフロ仏」にもお参りです。

■大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅

今年(2017年)は、江戸から明治へと時代の舵を大きく切った大政奉還から150年目となる記念すべき年です。
現在、個人的に勝手な記念イベント『大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅』を絶賛開催中です。

この旅もいよいよ終盤。今回は徳川方で最後まで新政府軍と戦った、会津藩主・松平容保を紹介します。

■松平容保

松平容保は、1836年、高須藩主松平義建(よしたつ)の六男として誕生。
9歳のときに叔父にあたる会津藩主容敬(かたたか)の養子となり、15歳でその跡を継いで会津藩主になりました。

1860年、桜田門外の変が起きると、幕府と水戸藩の調停を進め、その手腕を発揮します。
1862年、将軍家茂から幕政への参画を命じられると、同年に京都の治安維持を担う「京都守護職」に就任しました。


(松平容保/Wikipediaより)

容保は、その重責を担うことは出来ないと固辞し、家臣らも就任を強く反対しましたが、将軍家への忠誠を重んじる会津藩家訓に従い、最終的には就任を受諾。
12月に、藩士約1,000人を率いて上洛しました。

■新撰組と共に

当時の京都は、尊皇攘夷派の浪士たちによるテロが横行し混迷を深めていました。
その治安維持のために、容保は、壬生の浪士組、後の新撰組を庇護することとなります。

特に有名なのは、1864年の蛤御門の戦い(禁門の変)における戦いぶり。
長州藩が京都御所に襲撃してきますが、容保は新撰組らと共に、これを撃退。天皇の信任を厚くしました。


(京都御所・蛤御門)

しかしながら、1866年、将軍家茂が病死、さらには孝明天皇が崩御と、容保が信頼する2人を相次ぎ失うと、情勢は一変。討幕派が台頭し、容保の目指す公武合体の道は閉ざされました。
翌1867年に大政奉還がなされ、京都守護職は廃止となります。

■戊辰戦争

1868年、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争に突入しますが、薩摩・長州藩を中心とした新政府軍に対し、旧幕府軍は敗走を重ねます。

戦線は会津に及び、有名な白虎隊らの奮闘もむなしく、1ヶ月に及ぶ籠城戦の末、会津藩は降伏、鶴ヶ城を開城しました。


(飯盛山・白虎隊の像)

容保は、蟄居の身となりますが、1872年に許され、日光東照宮宮司などを歴任。
1893年に逝去、享年59歳でした。

■鶴ヶ城

そんな松平容保ですが、今回は、そのゆかりの地を2つ巡ります。

一つは、戊辰戦争の最後の激戦地、会津若松の鶴ヶ城。会津若松のシンボルとも言える名城です。
戊辰戦争の後に取り壊されましたが、1965年に再建、2011年には赤瓦へのふき替えが完了し幕末当時の姿を取り戻しました。


(鶴ヶ城)

もともとは、南北朝の時代に地元の豪族・蘆名氏が館を築いたのが始まりとされます。
その後、伊達正宗や蒲生氏郷、上杉景勝ら錚々たる大名が入城します。

江戸幕府3代家光の頃にこの鶴ヶ城に入ったのが、会津松平家初代の保科正之です。そして最後の城代となったのが、今回紹介の松平容保でした。

■金戒光明寺

いま一つは、京都市左京区黒谷町にある金戒光明寺です。


(金戒光明寺・御影堂)

松平容保が京都守護職に就いて京都に上ると、ここ金戒光明寺を会津藩の本陣としました。
新撰組なんかもここを訪れたんだろうな…。幕末維新の大きなうねりをつくり出した場所と言えるでしょう。

そんな縁もあって、ここには会津藩士352名が眠る「会津藩殉難者墓所」があります。

なお、ここ金戒光明寺には、じわじわとキテいる(?)名物があります。
それがこちら、五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏。通称「アフロ仏」です。

実は、このアフロヘアーにはちゃんと意味があります。
このお姿は、気の遠くなるほど長い修行をしたために、気がつけば髪が伸び放題となってしまった様を表しているのです。
決してファンキーな仏様ではありません。とっても有り難い仏様なのです。

これをお目当てに参拝に来る人も多いのだとか。
皆さん、せっかくですので、すぐそばにある会津藩士墓所も参拝されてはいかがでしょうか。

ありがとう、松平容保!ありがとう、アフロ仏!

■基本情報

名称:金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
住所:京都府京都市左京区黒谷町121

アクセス:JR京都駅から市バスで35分
営業時間:(公開)9:00~16:00

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