こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、会津探訪のたび、白虎隊ゆかりの飯盛山と鶴ヶ城です。
■会津探訪のたび
10月の終わりに、福島は会津の地に、ぶらり旅に行ってまいりました。
残念ながら雨の中の会津探訪となりましたが、実に「夢中」満載の旅となりましたので、2回に分けて、会津の旅の見どころを紹介します。
今回はその1回目、白虎隊ゆかりの飯盛山と、戊辰戦争の激戦地・鶴ヶ城です。
■飯盛山
まずは、白虎隊ゆかりの飯盛山に向かいます。
飯盛山は、会津若松市街の東2キロにある、城下町を一望できる小高い山です。白虎隊の自刃の地としても知られています。
白虎隊とは、幕末維新の戊辰戦争の際に結成された、会津藩士子弟らで構成された少年部隊です。ほとんどが16歳から17歳までの少年でした。
戊辰戦争では果敢に新政府軍と戦いますが、戸ノ口原の戦いで敗走し、ここ飯盛山に逃れました。
そのとき飯盛山から見た、城下の武家屋敷の火災を鶴ヶ城の落城と錯覚して、もはや帰るところがないと自刃しました。
急な階段をのぼると、「白虎隊十九士の墓」があり、悲劇の隊士19人が眠っています。
木々に囲まれて静かに並ぶ墓石には、今もなお訪れる人が多く、墓前に線香の煙が絶えることはありません。
白虎隊の自刃の地は、その墓からほど近いところにあります。
ここに立つと、遠くに鶴ヶ城が見えます。ここから眺めた城下町の黒煙と炎を見て、鶴ヶ城の落城と誤解したのですね。
それを自分たちが敗北したせいだと責任を痛感して自刃するというのは、あまりにも純粋で、あまりにも哀れです。言葉を失いました…。
ちなみに、飯盛山に逃げ込んだ白虎隊は20人いましたが、一人が奇跡的に蘇生しました。
いま知られる白虎隊の自刃に至る経緯は、そのただ一人の生き残りである飯沼貞吉の証言により明らかになったものです。
そんな飯沼貞吉の墓も「白虎隊十九士の墓」の近くにあります。
また山の中腹には、特異な建築様式の「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」があります。その形がさざえの殻に似てることから、俗に「さざえ堂」と呼ばれています。
近くに「天高し ピサの斜塔と さざえ堂」という歌碑もありました。なるほど、日本のピサの斜塔とも言えるかもしれませんね。
■鶴ヶ城
続いて、その白虎隊の本拠、鶴ヶ城に向かいます。
白虎隊の面々は落城と見誤りましたが、実は難攻不落と言われた鶴ヶ城、それから約1ヶ月もの間、薩長の攻撃を耐え抜きました。
しかしながら時の流れを押しとどめることは出来ず、最終的には開城。その後、城は取り壊しとなりました。
現在の天守閣は、1965年(昭和40年)に再建されたもの。
2011年( 平成23年)には赤瓦へのふき替えが完了し、鶴ヶ城は往時の姿を取り戻しました。現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守閣となっています。
城の足元で、タツノコプロのデザインによる、会津若松市観光PRキャラクター「お城ボくん」(おしろぼくん)が出迎えてくれました。
天守閣の内部は郷土博物館となっており、鶴ヶ城の歴史や会津の歴史を学ぶことができます。
特に、戊辰戦争が行われた幕末動乱期の展示は充実しています。白虎隊で自刃した隊士の肖像画も展示されていて、そのあどけない表情に胸が詰まります。
天守最上層からは雄大な会津の景色と城下町を一望できます。
天守からも白虎隊自陣の地、飯盛山を遠くに見ることができました。降り続く雨はまるで涙雨のように、鶴ヶ城の赤瓦を濡らしていました。
ちなみに、この鶴ヶ城、もともとは、南北朝の時代に地元の豪族・蘆名氏が東黒川館という館を築いたのが始まりとされます。
その後、伊達正宗や蒲生氏郷、上杉景勝ら錚々たる大名が入城します。
江戸幕府3代家光の頃にこの鶴ヶ城に入ったのが、会津松平家初代の保科正之です。会津松平家は江戸時代を通じてこの会津の地を治め、そして運命の戊辰戦争を迎えることになりました。
それぞれのこの城にまつわるドラマは、語りだすとシリーズものになるほど、歴史ファンにとってロマンあふれる城、それがこの鶴ヶ城です。
歴史ロマンに浸りながら、会津探訪のたびは次の目的地・南会津へ。それはまた次の機会に。
ありがとう、飯盛山!ありがとう、鶴ヶ城!