大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅 
伊藤博文と西大井墓所

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅 伊藤博文と西大井墓所です。

■大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅

今年(2017年)は、江戸から明治へと時代の舵を大きく切った大政奉還から150年目となる記念すべき年です。
現在、個人的に勝手な記念イベント『大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅』を絶賛開催中です。

今回は、長州ファイブの一人にして初代内閣総理大臣、伊藤博文です。



■伊藤博文

伊藤博文は、長州藩出身の政治家です。
大日本帝国憲法の起草にあたり、初代の内閣総理大臣を務めました。


※Wikipediaより

1841年、現在の山口県光市の農家林十蔵の長男として生まれます。
家は貧しく、12歳から奉公に出されましたが、父が長州藩足軽の伊藤家の養子になったことから、博文も足軽となりました。

1857年、吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作や久坂玄瑞らと出会います。
入塾当初は、身分が低かったために、塾外で立ち聞きしていたとそうです。

彼に転機が訪れたのは、長州藩の上士で江戸仕えをしていた桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となったときです。
桂の信任を受けて博文は次第に藩で頭角をあらわします。

桂の支援もあって、1863年に井上馨らと共に、長州五傑(長州ファイブ)の一人として、イギリスに渡航。
英語を学ぶと同時に、海軍施設や殖産技術を見学、諸外国と日本との圧倒的な国力の差を目の当たりにし、開国派として目覚めました。


※長州ファイブ(右上が伊藤)/Wikipediaより

■高杉とともに

元治元年(1864)、米英仏蘭4箇国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国。
戦後は、高杉晋作の通訳として、連合国との難儀な和平交渉にあたりました。


※高杉(中央)と伊藤(右)/Wikipediaより

第一次長州征伐で長州藩が幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉晋作らと共に挙兵。
高杉は奇兵隊を、伊藤は力士隊を率いて戦い、旧体制派を倒して、藩政の実権を握ります。
後に伊藤はこの時のことを述懐して、「私の人生で唯一誇れることは、このとき一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っています。

明治政府では、内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法の制定を指導しました。

明治42(1909)年、中国のハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根により暗殺されました。
享年68歳。

■伊藤博文公墓所

伊藤博文の墓所は東京都品川区にあります。
西大井駅から歩いて3分。晩年を過ごしたこの地は彼の別邸があったところ。そこに墓が建てられました。

品川区指定文化財のため、一般公開はされていません。
墓所の入り口は金属製の頑丈な門で閉ざされていました。

ただ、鉄の棒の隙間から中を覗き見ることはできます。
門の先に伊藤博文の銅像が見えました。

敷地は初代首相に相応しくとても広く、そして静謐に包まれています。

手前に庭があり、次いで石灯篭が左右にずらりと並び、全域が神社のようになっています。
その奥に墓所があると思われますが、実際の墓石までは見えません。

替わりに、近くの案内地図にその姿が掲載されていました。鳥居の奥にある丸い石棺のような塔が、伊藤博文の眠る墓です。合掌。

■開東閣

また、品川区に隣接する港区高輪の地には、旧邸宅地があります。
こちらも一般公開はされておらず、現在は三菱グループの倶楽部として利用されています。

三菱2代目の岩崎弥之助が、明治22年に伊藤博文から購入し、別邸としました。
今は「開東閣」(かいとうかく)と呼ばれ、11,200坪の広い敷地を有しています。


※開東閣本館/Wikipediaより

ちなみに、映画「シン・ゴジラ」では、ゴジラ(第3形態)がこの近くまで襲来し、迎撃ヘリコプターがこの開東閣の上空で待機しました。
そのときに鬱蒼と木が生い茂るこの地が映し出されます。結果的にはゴジラはその後、海に向かって一旦引き揚げていきます。
いやぁ、破壊されなくてよかった…。

以上、今日は、江戸東京に残る伊藤博文ゆかりの地を訪ね歩きました。

ありがとう、伊藤博文!安らかにお眠りください。




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