大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅 <br>桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、大政奉還150周年!ゆかりの”人”を巡る旅、桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件です。


(京都・池田屋跡)

■剣豪・桂小五郎

桂小五郎(木戸孝允)は、明治維新に貢献した長州藩士です。
西郷隆盛、大久保利通と並んで、維新の三傑に挙げられる英雄です。


(Wikipediaより)

青年時代は剣術修行に励み、江戸に留学して、三大道場の一つ、練兵館で免許皆伝を得ると、1年で塾頭になりました。
江戸留学中の5年間で剣豪・桂小五郎の名を世に知らしめたと言われます。
近頃、坂本竜馬と対決した「幻の剣術大会」の存在を示す史料が群馬県立文書館で見つかりました。それによると2対3で桂小五郎が勝ったのだとか。剣豪・桂小五郎、恐るべし…。

江戸留学中に見たペリー艦隊に衝撃を受けた小五郎は、開国攘夷派であったと言われます。
欧米の最新の知識・技術を取り入れるべきという考えは、伊藤博文ら長州ファイブを留学させることに大きく貢献したと言われます。

■激動期

ときは幕末の激動の時代。京都では尊王攘夷派の長州藩士らが新撰組に襲撃される池田屋事件が起きます。
間一髪、難を逃れた小五郎ですが、その後の蛤御門の変を抑えることはできませんでした。
もともと武力行使には否定的だった小五郎は、戦火のなか、孝明天皇への直訴を目論みますが、かなわず潜伏生活に入ります。


(京都・蛤御門)

潜伏生活の小五郎を表舞台に復帰させたのは、高杉晋作でした。
幕府による第一次長州征伐に際し、軍事クーデターにより長州藩の実権を握った高杉晋作は、藩の統率者として小五郎を迎えます。
その後、長州藩が軍制改革と藩政改革により力を回復していったのは、小五郎の開明的な考えと指導力に負うところが多いと思います。

その小五郎を、長州藩から日本国の英雄にのし上げたのは、1866年に結ばれた薩長同盟です。
坂本龍馬らの斡旋のもと、小五郎は長州の代表として、薩摩の西郷隆盛と会談。後の明治維新につながる薩長の強力な連合をつくりました。

■維新後

明治維新後は、総裁局顧問専任など要職を務め、版籍奉還や廃藩置県など改革を進め、その開明的な思想から封建的風習の廃止や教育の充実なども積極的に進めました。
なお、維新政府において、木戸孝允(きどたかよし)を公的な名前として使うようになりました。

1877年に病没。奇しくも西郷が西南戦争を起こした年でした。
最後の言葉は「西郷もいいかげんにしないか」だったそうです。享年43歳。

■池田屋

そんな桂小五郎ですが、彼を含め尊王攘夷派を震撼させた事件が池田屋事件です。

ときは1864年7月8日。京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士たちを、新撰組が襲撃した事件です。

攘夷派による、一橋慶喜・松平容保の暗殺、孝明天皇の長州動座(連れ去ること)の計画を突き止めた新撰組が、志士たちが集う池田屋に踏み込みます。
このとき最初に乗り込んだ新撰組隊士は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助です。後に土方歳三らが駆けつけ、志士らを一網打尽にしました。

小五郎も、この池田屋における謀議に参加する予定でした。
一説には、会合への到着が早すぎたために、一旦池田屋を出ていたことから難を逃れたとされていますが、別の説では、襲撃の際に池田屋にいて、騒ぎに気づき池田屋の屋根をつたって脱出したという説もあります。

この池田屋事件により、新撰組の名が世に轟くと共に、逆にそのことが攘夷派を結束させることとなり維新を早めたとも言われています。

現在、池田屋跡は、某大手チェーンの居酒屋となっています。

2階には新撰組隊士の肖像絵がデカデカと掲げられています。残念ながら小五郎が脱出したとされる屋根の姿をうかがい知ることはできませんでした。

■旧長州藩邸

程近いところに、長州藩邸跡があります。襲撃された志士の一部は、ここに逃げ込んだとされています。
ここに桂小五郎の銅像があります。

やっぱり京都は史跡の宝庫ですね。池田屋が居酒屋になっているのはちょっと微妙な気もしますが。。。

ありがとう、桂小五郎!いらっしゃい、池田屋へ!?

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