赤穂浪士の「決死」の舞台は今は86分の1。将軍も寵愛した吉良義央はなぜ切られたのか?街あるきの穴場「両国」を歩く!

両国国技館で有名な両国の街を歩いてきました〜。

両国と言えば、日本の国技である相撲の聖地、両国国技館のお膝元。

いま、若貴以来の相撲ブームが来てるみたい。
11年ぶりの日本人横綱も誕生しましたしね。おめでとう、稀勢の里!

■吉良邸は両国にありました

でも、今回は相撲を見に来たわけでなく、目的は吉良邸を見に行くこと。

吉良邸と言えば、赤穂浪士の討入りの舞台で有名です。

最近になって、ようやく年末年始に録りだめしていたテレビ番組を見始めたのですが、
そのなかの一つ、某国営放送の「忠臣蔵の恋」に触発されて、遅ればせながら、今回の街あるきに出かけました。

フジテレビ系「もしもツアーズ」でも両国が紹介されていましたし、このお江戸の街がいま、ちょっとアツいかも。

忠臣蔵では、敵役の吉良上野介。
名前は義央(よしひさ)といいます。
ちなみに、前述の「忠臣蔵の恋」では、伊武雅刀さんが演じていました。

吉良家は、源氏を本姓とする名門で、義央も能力が高く、ときの将軍綱吉から寵愛を受けていたそうです。
妻も名門の出で、米沢藩主上杉綱勝の妹でした。

上杉家はこの綱勝が夭逝したため、吉良義央の長男を養子をもらって、お家断絶の危機を切り抜けます。

一方の吉良家のほうも義央の嫡男(次男)が夭逝したため、上杉家から養子を迎えます。
両家の密接な関係がうかがい知れますね。

当時の赤穂浪士は、吉良家だけでなく上杉家という強力な与党に立ち向かったことになります。
良い悪いは抜きにして、「決死」の覚悟であったのは間違いないでしょう。

そんな「決死」の討ち入りの舞台となったのが、ここ両国の吉良邸です。

【吉良邸跡】

マンションに囲まれて、なんか肩身が狭そうにたたずんでいます。

それもそのはず、立て看板には次のように記載されています。

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2,550坪(約8,400㎡)だったとされています。

吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701年)3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。

現在、吉良邸として残されている本所松坂街公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。

当時は、この86倍の広さでした。
そりゃそうだよね。赤穂浪士47人が血眼になって探したんだもの。

■吉良上野介義央像

赤穂浪士の討ち入りの原因となった「松の廊下」の刃傷事件のことは詳述しませんが、藩主に神聖なる場所で刀を抜かせたというのは、よっぽどなことだったんではないかなと思います。

吉良さんも、頭が切れるだけに、正論を言い過ぎちゃったのかもしれません。
よくいませんか?正しいことを言ってるんだけど、「もう少し言い方があるだろ!」って人。
吉良さんは、もしかしたらそんな人だったのかもしれません。
ひとは理屈では動かないんですよね。いかにそれが正しくとも…。

【吉良上野介義央像】

ちなみに、この吉良邸跡に、「吉良家家臣二十士」の碑というのもありました。

赤穂浪士の討ち入りに際して、主君を守ろうと奮迅して命を落とした吉良家の家臣らを弔ったものです。
清水一学とか小林平八郎とか、忠臣蔵を題材としたドラマには必ず出てくる人たちの名前も…。

【吉良家家臣二十士の碑】

ときは元禄15年12月14日。西暦では1703年1月30日の深夜だったそうです。

世の争いごとを見聞きするたび思うことは、いまもむかしも同じです。
ここに至る前にできることはなかったのか。

合掌。安らかにお眠りください。

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