歴史を動かす生麦事件、その現場は今!?鉄道開業の10年前、ここ生麦の地で何が起きたのか?

日本ではじめて鉄道が走った区間を歩くたび。

■日本橋からの距離標識

鶴見から横浜に向かいます。
第一京浜・国道15号線を歩いていると、こんな標識を見つけました。

日本橋から24キロ。

旧東海道の名残なのでしょうか。
さすがに汐留の「0哩(マイル)標識」からの距離を示す標識はありませんが、距離的にはほぼ同じでしょう。
相当寄り道してるから、むしろもっと歩いてるんでしょうね。
数字を見ると、感動ひとしおです。よく歩いたもんだなぁ。

■「生麦」へ

と、もう一つ気になったのが、ここの地名。
「生麦」
ちょっと歴史をかじった人なら耳馴染みのある地名です。
そーです。あの「生麦事件」が起きた場所なんですね。

生麦事件とは、幕末に起きた、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件。
当時は、ここは神奈川県生麦村と言われていた頃です(今は横浜市鶴見区生麦)。

1862年9月14日、薩摩藩の島津義光の一行が、江戸からの帰り道に、馬に乗った英国人に遭遇します。
当時は、大名行列に対しては、ひれ伏すのが日本人の一般常識。
しかしながら、馬上の英国人に対して、日本の流儀は通用しません。
ひれ伏すどころか、馬に乗ったまま、行列の脇を通り抜けようとします。

尊皇攘夷が盛り上がっている中、この英国人の行為は致命傷でした。
隊列を乱された薩摩藩は、無礼だとして、この4人に切りかかりました。

英国人1人が死亡、2人がけがをしました。

■生麦事件の発生現場

冒頭の標識から少し歩くと、そんな「生麦事件」の現場をみつけました。
今は閑静な住宅街の、とある民家の前に看板があります。
150年ほど前に、そんな凄惨な事件があった現場とは、とても考えられないところです。


この事件の後、英国側は、幕府と薩摩藩に対して、賠償金と藩士の差し出しを要求。
これを拒んだ薩摩藩との軋轢は、のちに薩英戦争を引き起こしました。

この薩英戦争に敗北した薩摩藩は、近代化の必要性を痛感。攘夷から開国へと大きく舵を切ります。
大げさかもしれませんが、生麦事件を機に、日本は大きく、開国から明治維新へ進むことになったと言ってもいいかもしれません。
ちなみに、この一行の中に、維新の立役者、大久保利通がいたというと、歴史ファンの皆さんは色めき立ちませんか?

この事件をめぐる幕府側の対応は二転三転しました。
突きつけられた賠償金要求に対して、支払うと言ったり、やっぱり止めたと言ったり。
最後は、英国艦隊が戦闘準備に入るなか、老中小笠原長行が独断で賠償金を支払い、戦闘を回避しました。
ちなみにその直後、小笠原は老中を罷免されています。

英国が薩摩藩に矛先を向けたのも、薩摩藩は幕府の統制下にないと判断したからとされています。
幕府の頼りない対応を見て、一行にいた大久保利通も、倒幕の思いをさらに強くしたのではないでしょうか。

■生麦事件の碑

この生麦事件の発生現場から700メートルほど歩いたところに、生麦事件の碑があります。

薩摩藩士から斬り付けられた英国人リチャードソンは、現場から逃げましたが、力尽きてここで落馬。
追ってきた薩摩藩士からとどめを刺されて絶命しました。
碑には、犠牲者リチャードソンを追悼する詩が記されています。

歴史的な重大な転換点…なんですが、誰にも気づかれないかのように、ひっそり佇んでいる感じです。
確かに死人が出るようなイザコザが発生した現場ですから、そんなに賑わってもよろしくないのでしょうね。

■本覚寺

ここからもう少し歩みを進めると、「本覚寺」というお寺があります。
小高い丘にある曹洞宗のお寺なのですが、ここも生麦事件に縁のあるところです。

本覚寺のあるこの丘は、幕末の横浜開港時、横浜港が一望できることから、アメリカ領事館が置かれていました。
ここに、生麦で薩摩藩士に切りつけられた英国人2人が、命からがら逃げ込んだのです。
そんな当時を偲ぶ碑が、山門の前にひっそりと建てられていました。

なお、この山門は、日本で初めてペンキ塗りされた山門です。
白塗りされた山門は、震災・戦災を免れ、今もこうして当時の姿を残しています。

幕末の世を揺り動かした生麦事件。
もしかしたら、この事件がなければ、幕末の日本は開国がされていなかったかもしれませんね。
ということは、いま私が歩いている鉄道の開業もどうなっていたことか分かりません。。。

そんな感慨を胸に抱いた「生麦」の街あるき。
事件が起きたのは、鉄道開業のちょうど10年前のことでした。

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