城ぶら「飫肥城」!島津・伊東の因縁を鎮める飫肥杉の木立

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の城ぶらは、日本100名城の一つ、宮崎日南にある名城、飫肥城(おびじょう)です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

日本100名城の一つ、飫肥城
飫肥城は、南北朝時代に、宇佐八幡宮の神官の出の土持氏が築城したのが始まりと言われます。

戦国期に入って、この飫肥城をめぐって、熾烈な戦が繰り広げられます。
片や、薩摩の戦国大名・島津氏。対するは、日向の覇権を狙う伊東氏

はじまりは1484年。伊東氏が島津氏の一族・新納忠続の守る飫肥に侵攻します。
島津氏は、薩摩から精鋭を擁する援軍を派遣。数で劣りながらも、伊東氏を圧倒。
伊東氏は、当主・祐国を失うなどして撤退。

この後も、飫肥城をめぐる島津氏と伊東氏の争いは幾度も続きます。
そして1568年、伊東祐国の孫にあたる義祐が、ついに飫肥城を奪取。念願の飫肥の地を手にします。

しかしながらそれも束の間、武勇の誉れ高い島津義弘が、「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦いで、伊東氏の名だたる武将を討ち果たすと、そこから伊東氏は一気に没落。
飫肥は再び、島津の支配下となります。


(伊東氏の甲冑、九曜紋の旗)

伊東氏は日向を追われ、豊後、伊予、播磨と流浪の旅を余儀なくされます。
しかし、運命がどこで変わるかわかりません、伊東祐国のひ孫にあたる伊東祐兵が羽柴秀吉の家臣となったことから急転。

伊東祐兵は、秀吉の九州平定軍での活躍が認められ、1587年に飫肥の地を獲得。伊東氏は再び飫肥の地に戻ることができました。
この後、伊東氏は関ヶ原の戦いで東軍側として働くなどして所領を安堵。その後、明治時代まで、飫肥の地は伊東氏によって治められることになりました。

■城ぶらり

そんな激戦の地、飫肥城
残念ながら明治に入って廃城となり、すべての建物が取り壊されましたが、一部が復元されています。

その一つが大手門
木造二階建て、高さは12メートルあります。建築材には、樹齢100年の飫肥杉が使われました。

大手門を抜けて城内を歩きます。
4つの角にある4本の杉の対角線上に立つと幸せパワーがもらえる「しあわせ杉」なんてのもありました。

続いて、同じく再建された松尾の丸へ。
中に入ると、当時の御座の間や茶室など武家屋敷の様子が再現されています。
豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿なんてのも復元されていました。


(松尾の丸)


(湯殿)

そして、飫肥城旧本丸跡へ。
飫肥城は東西約750m、南北約500mの広大な城でした。
戦国時代にその本丸が置かれていた場所。島津・伊東の因縁の場所と言えますね。

いまはその魂を鎮めるように、樹齢100年を超す飫肥杉が林立しています。
神々しい杉木立と緑深い苔のじゅうたんに、心身ともにリフレッシュされる感じです。

その名も「いやしの森」
連続テレビ小説「わかば」では、ヒロインの若葉が落ち込んだ時に元気を取り戻した場所として撮影に使われました。

他にも、飫肥藩ゆかりの資料が約 220 点展示保管されている飫肥城歴史資料館なども。
見どころ盛り沢山で、パワースポットもあり。時を経つのを忘れて城ぶらできる場所、飫肥城でした。

ありがとう、飫肥城!

■基本情報

名称:飫肥城跡(おびじょうあと)
所在地:宮崎県日南市飫肥大手

アクセス:JR飫肥駅から徒歩10分
営業時間:9:00~17:00
休業:12月29日~12月31日

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